琴浦自慢 絵てがみ いろはかるた

2010年2月4日
琴浦レディーズスクール絵手紙コース生の皆さんが町の名所や旧跡、名物などをモチーフに共同制作された48枚の「絵てがみいろはかるた」が、まなびタウンとうはく3階に展示されています。このかるたは町広報紙「広報ことうら」平成19年5月号から、文章を添えて紹介しています。

い 古(いにしえ)の歴史とともに八百年 【古布庄の大スギ】

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中津原集落の大正(たいしょう)神社の社叢(しゃそう)の中に、ひときわ高く目立つスギの大木があります。
これが古布庄の大スギです。
樹齢は推定800年、樹高35.2メートル、周囲7.15メートル、枝張り19×19メートル。 
昭和32年12月25日、県の天然記念物に指定されました。
古来から、この地方の人々は神木として崇敬篤く、地方の巨木として有名です。
本来、スギは大山山麓(ろく)の黒ぼく地帯では育ちにくいですが、この谷に限ってスギが多く、植物学上また林学上、貴重なものです。
境内にはスギのほかにアスナロ、ケヤキ、タブ、アカ  ガシ、ヤブニッケイなどの高木があります。



ろ 六百年の歴史とともに光徳寺 【光徳寺の山門】

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光徳(こうとく)寺は、もと天台宗に属し野田集落にありましたが、退休寺三世空圓(くうえん)が永享元年(1429)に公文部落の現在地に移し、曹洞宗に改宗しました。
当時の出雲守護代、尼子持久は空圓に帰依し、永享5年(1433)に本堂、庫裡(くり)を寄進し尼子氏の祈願所としました。
その後嘉吉二年(1442)、持久の嫡子、尼子清定が山門、鐘楼、開山堂を寄進しました。
本尊は十一面観世音菩薩。
また、伯耆三十三カ所観音霊場のひとつで、春秋には多くの巡拝者が訪れています。
十六羅漢像は鳥取池田藩の名工、西尾文明の作と伝えられています。



は 白鳳の文化を伝える斉尾の史跡 【斎尾廃寺跡】

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斎尾廃寺(さいのおはいじ)は、地方では珍しい法隆寺式の伽藍(がらん)配置を採用。
出土遺物の瓦類では、創建時の軒丸瓦(のきまるかわら)は奈良県の紀寺廃寺(きでらはいじ)と同系統、軒平瓦(のきひらかわら)は法隆寺にも見られる忍冬唐草文(にんとうからくさもん)で飾り、この寺院が中央と深くかかわっていたことがうかがわれます。
仏像では、大量の塑像片が塼仏(せんぶつ)とともに出土。塼仏は壁に貼り付けられていたと思われます。
塑像は、唇や如来の頭髪である螺髪(らほつ)などの大きさから推定すると丈六仏と思われます。
昭和27年、山陰地方唯一の国特別史跡に指定。



に 日本一なが~いショートコース 【光好ゴルフクラブ】

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大山山麓(ろく)の北東に位置する平坦なコース。
各ホールとも自然を最大限に生かした設計になっていて、平坦ながら谷越え、池越えなどもあり、変化に富み面白いです。
アウト・インコースともに飛距離を要するホールが配置され、戦略性も抜群。
また、本格的なベンドグリーンを備え、パッティングには高度な読みとテクニックが要求されます。
上級者からビギナーまで、ゴルフの楽しさを満喫することができます。
東伯産の鳥取芝がコースに使用されています。



ほ 伯耆稲荷で商売繁盛無病息災 【伯耆稲荷神社】

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伝説によれば、平安末期、後白河天皇のころ、白狐(きつね)の神の使いが「近々大飢饉(ききん)があり」と告げました。
寛喜2年(1230)、お告げのとおり大飢饉となり多くの餓死者が出ましたが、この地方は苦しまなかったとのことです。
社殿も改廃数度に及びましたが、昭和2年、勝負谷に安置されました。
昭和23年、稲荷大明神を改め稲荷神社となりました。
伯耆稲荷として、今も多くの崇敬者が絶えない神社です。



へ 下手も上手もしなやかに 【三本杉盆踊り】

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三本杉の盆踊りは江戸中期から踊り継がれ、三本杉部落を発祥の地として伝えられています。
信仰心の強い地元住民は、金比羅大権現(こんぴらだいごんげん)や秋葉(あきば)大権現を勧進し祀(まつ)るようになり、それぞれの縁日には盛大に踊りを踊って奉納してきたそうです。
昔は町内各村はもとより、町外からも若衆たちが集まり、泊りがけで数日間踊りに踊ったと言われています。
この踊りの特徴は、編み笠にかすり姿で単調な太鼓のリズムに合わせ踊る手ぶりに色っぽさが感じられ、時のたつのも忘れて踊るところにあります。
また、倉吉地方に伝わる三ツ星踊りの源流とも言われています。



と 鳥取芝球児とともに甲子園 【鳥取芝】

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芝栽培の始まりは昭和30年ごろ。
当時、旧東伯町の農業といえばさつまいもや養蚕が中心でしたが、関西方面でゴルフ場の建設が進み芝の需要が増えたことから、芝を試作することに。
さっそく種芝2haと姫高麗芝1300㎡を入手し、槻下や上伊勢、金屋部落を中心に植えつけられました。
昭和34年には芝栽培の本場、茨城県から芝切り専門の技術者を招いて指導を受け、芝栽培に自信と意欲が出てきたとされます。
同年、東伯芝組合(現在の鳥取県芝生産組合)が設立されました。



ち ちょっと一杯あごちくわ 【あごちくわ】

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飛魚(とびうお)のことを鳥取では「アゴ」と呼んでいます。
アゴのすり身を丸竹に巻きつけて、じっくりと焼いて作るあごちくわ。
その風味と食感は酒の肴(さかな)、またおかずに最適で、盛り皿には欠かせない一品です。
料理に使うのもいいけれど、何も手を加えないでそのまま丸かじりするのが、いちばん美味しいですね。
また、飛魚は琴浦町の夏を告げる魚として知られ、水揚げ量も多いことから「町の魚」に指定されています。



り 立派に育てと願いを込めて梨づくり 【二十世紀梨】

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明治21年、千葉県内の民家のごみ捨て場で、当時13歳の松戸覚之助少年によって発見された梨の苗木は、10年後に初めて実をつけました。
果肉は豊円で美しく、おいしいことから二十世紀に王座をなす梨になるであろうと「二十世紀梨」と命名。
明治37年、北脇栄治氏により鳥取県に導入されました。
二十世紀梨は鳥取県の気候風土に適合し、県民の粘り強いたゆまぬ努力により特産物として成長し、農家経済を支えてきました。
現在は海外に輸出されるなど、世界中の人々に愛されています。



ぬ 塗り壁に光る職人の技 【光の鏝(こて)絵】

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光集落の家々の蔵には、地元の左官職人が漆喰(しっくい)壁に鏝で描いた福神や動植物などの浮き彫り模様(鏝絵)が多く施されています。
これらは昭和30年代から、縁起と家の構えを重んじる意味で描かれるようになり、それぞれは精緻(せいち)な造りで、落ち着いた集落のたたずまいを引き立たせています。



る 瑠璃色に輝いて谷に染み入る鐘の音 【智積寺の梵鐘】

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鐘名「備前福岡庄 貞和三禩年歳次丁亥(ていわさんしさいじひのとい)六月十三日誌之 西祖禅寺(さいそぜんじ)住持金居(じゅうじかない) 」この銘文により、福岡庄(現在の岡山県備前市)の西祖禅寺の鐘が智積寺に移されたことが知られていますが、西祖禅寺は廃寺となり、住持金居という僧についても不明で、移された経緯は今もわかっていません。
智積寺の梵鐘は、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、船上山から竹内地内の現在地に移されました。
鳥取県内で銘文のある梵鐘のうち、古い順位で五指に入ります。
昭和33年、県保護文化財に指定。



を おいしさ抜群あごだんご 【あごだんご】

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「あご」は山陰地方で飛魚(とびうお)のことをいい、初夏の風物詩のひとつとして親しまれています。
琴浦町内では古くから、日本海で獲れた新鮮なあごを原料にした魚肉の練製品加工業が盛んで、松竹梅や鶴亀などの縁起物を模したかまぼこが作られています。
このほか、さまざまな種類のちくわや揚げ物も作られ、販売されています。
あごは低カロリーで低脂肪、高たんぱく質のヘルシーな食品。
家庭ではすり身をだんごにして鍋の具やみそ汁の実にしたり、煮付けにしたりして食べられています。



わ わらじ脱ぎ何処(どこ)へ行くのか三度笠 【波しぐれ三度笠】

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江戸時代の赤碕本港、菊港の東突堤に、三体の石像が建立されています。
石造は昔の旅姿を象徴し、三度笠は旅を、そして旅は人生そのものを表しています。
北東に向かって立つ彫刻は四季それぞれに表情を変えながら、私たちに生きる希望と勇気を与えてくれます。
この石像は、東京日動画廊社長の長谷川徳七氏が母・林子さんの生誕地、赤碕の発展を願って町に寄付されたお金をもとに、彫刻家の流政之氏が制作されました。



か 韓国と日本の友好交流永久にあれ 【日韓友好交流公園風の丘】

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文政2(1819)年、韓国江原道(カンウォンド)平海(現在の慶尚北道蔚珍〔ウルチン〕郡)を出航した商船が嵐のため難破。
また、昭和38(1963)年には、釜山(プサン)港を出航した漁船が故障により漂流。
どちらの船も赤碕沖に漂着し、乗組員は地元住民の手厚いもてなしなどにより、無事本国に帰還しました。
町ではこれらの史実をふまえ、平成6年から蔚珍郡と、平成9年に友好親善交流協定を締結した麟蹄(インジェ)郡と、幅広い交流を行っています。
平成15年、日韓友好の永続を願ってこの公園が整備されました。


 

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