後醍醐天皇と琴浦のゆかり

2008年2月7日
後醍醐天皇と名和長年を中心として船上山を舞台とした太平記を体感する歴史探訪の旅はいかがですか。まずは、太平ロマンへと誘う簡単な概略解説を一読ください。

後醍醐天皇と琴浦町のゆかり

「太平記」としてその英知が現在に伝わる「後醍醐(ごだいご)天皇」。後醍醐天皇は、正中の変(1324年)、元弘の乱(1331年)と、二度に及ぶ倒幕計画を練り実行したとして、鎌倉幕府の執権・北条氏により、承久の乱の故事に倣って隠岐の島へ配流されました。しかし後醍醐天皇はくじけず、1333年(元弘3年)隠岐の島からの脱出に成功し、伯耆国(現在の鳥取県西部)の豪商「名和長年」に迎えられて船上山(現在の琴浦町)に拠りつきます。後醍醐天皇は、船上山から討幕の綸旨を各地に発し、鎌倉幕府と対決する姿勢をさらに強め、同年5月ついには念願の倒幕に成功し「建武の新政」へとつながりました。この間、約80余日間を天皇が船上山で過ごされたことから、山頂は船上山行宮跡(あんぐうあと)として国史跡に指定されています。このほか琴浦町には後醍醐天皇とゆかりのある名所旧跡が多く点在し、訪れる旅人を太平記の時代へと誘います。

 


船上山と名和長年

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名和長年(なわながとし)が北条氏を破った「船上山」。「太平記」によると、石見・出雲・伯耆・安芸・美作・備後・備中・備前から、多数の武士がぞくぞくと集まったとあります。合戦を決意した長年は近くの要害山「船上山」に天皇を向かえ、名和軍150騎を従えて立て籠もりました。幕府軍約2000騎が船上山を囲みますが長年は、白布五百反の旗に近国武士の紋を描いて立て大軍がいるように見せかけました。船上山の上から降り注ぐ矢と、折りからの暴風雨に幕府軍がひるんだ隙に、長年は射手を率いて猛攻撃をしかけ、幕府軍1000騎余りは堪らず進退を失って谷底に落ちてゆきました。このようにして長年は船上山で勝利を収めました。



 船上山行宮(あんぐう)碑

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船上山山頂上北側の小丘「お休み場」では、西の島根半島から北の隠岐島まで一望できます。後醍醐天皇がこの地でたびたび野立てされたと伝えられ、大正13年、行宮碑が建立されました。



天皇水

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船上山の勝利の後、後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士を船上山に集めました。集まった西国中の武士達の数は、船上山の周囲20~30里にも及び人馬の波で埋まったといいます。船上山の勝利後、下山途中に後醍醐天皇がそばの大岩を指差され「この岩を起こせば水が湧いて出る」と言われたところその通り清水が湧いて出たといいます。この伝説の地「天皇水」には今も清水が湧き出ています。



智積寺の梵鐘

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「智積寺(ちしゃくじ)」は、室町末期の1530年に現在の地に創建されましたが、以前は船上山の山上にあり、合戦(1333年)の際、後醍醐天皇が立籠った寺として有名です。その昔、船上山の山上は山岳仏教の聖地として多くの寺院が軒を連ねていましたが、度重なる戦乱の中で多くの寺院は荒廃し、智積寺も山を下りて現在の地に草庵を営みました。智積寺の梵鐘(県保護文化財)には、「備前国福岡庄 貞和3年(1347年)」の銘があり、鳥取県の指定保護文化財となっています。また、経塚からは1万点に及ぶ泥塔(でいとう)経が出土しています。



空也上人ゆかりの地

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琴浦町は後醍醐天皇の第二皇子である「空也上人(くうやしょうにん)」ゆかりの地でもあります。「転法輪寺」には天禄3年(972年)、時の円融天皇が精舎一宇を建立し本尊の阿弥陀如来立像の両脇に空也上人像2体を3尊形式にして祀られたと伝えられる「木造空也上人像二体(鳥取県指定 保護文化財)」をはじめ、詞書と大和絵の絵画が交互に結びついて説話が進められている本格的な絵巻「空也上人御事蹟絵巻(琴浦町指定 保護文化財)」も歴史を表わす興味深い文化財として保存されています。



転法輪寺の大イヌグスと大イチョウ

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また、別宮地区内の「転法輪寺」には空也上人の墓と伝えられる塚もあり、塚のかたわらには、空也上人入寂の際、杖から芽が吹き、大木になったとされる大イヌグス(県の天然記念物)の木があります。また、境内には幹周りが5.45mにもなる大イチョウ(県の天然記念物)があります。話の尽きない琴浦町の歴史散策の旅、あなたも出かけてみませんか。


 

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