広報ことうら160
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 今回、出土した遺物の再調査を行った結果、斎尾廃寺跡はかつて「八寺」もしくは「八橋寺」と呼ばれていたことが分かりました。斎尾廃寺跡のように、発掘調査で出土した遺物から郡名に由来した寺院名であったことが分かった遺跡は、全国各地で発見されています。 例えば、琴浦町周辺では、倉吉市の大おお御み堂どう廃はい寺じがその1つです。ここでは、「久寺」・「久米寺」と書かれた墨書土器と、「久寺」のスタンプが押された土器が出土しました。大御堂廃寺があった場所は当時、伯耆国久く米め郡ぐんに属しており、久米郡の名前に由来していたことが分かっています。 このような郡名に由来した寺院は、奈良時代に聖武天皇の命によって全国各地に建てられた「国分寺」・「国分尼寺」のように、公の性格を持った官営寺院の可能性が考えられます。 では、「官営寺院」では、どのような活動を行っていたのでしょうか。 「官営寺院」の活動の1つとして考えられるのは、国家の平和や、天皇家の繁栄を祈願するための仏教行事です。 2つ目は、けが人や病人の治療と、貧困者の救済です。斎尾廃寺跡でも、公のお寺としてこのような活動を行っていた可能性があります。 斎尾廃寺跡の「八寺」の墨書土器の年代を考えると、少なくとも9世紀には公の寺として機能していた可能性がありますが、それ以前はどのように呼ばれていたか、どのようなお寺であったかは分かっておらず、斎尾廃寺が造られた当初から、公の寺としての機能を持っていたのか、疑問が残ります。そのため、今後の調査で明らかになることが期待されます。 「八寺」墨書土器から分かる斎尾廃寺跡まじないに使われた土器(琴浦町槻下「水溜り駕籠据場遺跡」出土)「酒」と書かれた墨書土器「福」と書かれた墨書土器墨書土器とは? 墨書土器とは、墨で文字などが書かれた土器のことをいいます。土器に書かれている文字には、人の名前や役職、建物の名前が書かれています。 その多くは、使用していた人や建物などが書かれており、発掘調査によって見つかった建物の性格を考えるうえでの手掛かりとなります。また、文字以外にも、絵が描かれているものもあります。絵の描かれた土器は、まじないに使われていたと考えられ、古代の人々の信仰を考えるうえでも重要な遺物です。古代の豆知識官営寺院で行われていた行事と救済活動 聖武天皇は、仏教の力によって国を治めようと、各国ごとに官営の「国分寺」と「国分尼寺」を設置しました。ここでは法会と呼ばれる多くの行事を行い、天下太平や五穀豊穣を祈っていました。また、天皇の病気回復祈願や、歴代天皇の命日に法要などを行っていました。 また、古代の寺院は国家の泰平を祈る一方、病気で苦しむ人の治療や、貧しくて困っている人の救済をしていたことが分かっています。これは仏教の考えの1つである「福田思想」に基づくもので、善意を行うと将来に徳を得られるというものです。平安時代の前期に成立した東大寺の説法集には「福田思想」に基づいた慈善活動の重要性が説かれています。再調査に用いた技術・赤外線カメラとは? 出土した墨書土器のなかには、墨が薄れて文字が読めないものがあります。そこで登場するのが、赤外線カメラです。赤外線は墨に吸収されやすく、それ以外の物質には吸収されにくい性質をもっています。そのため、赤外線カメラを透してみると、薄くなって見えなかった文字を読むことができます。昔に比べ、現在では科学技術が格段に進歩しています。30年前には分からなかったものも、現代の技術を用いれば赤外線カメラのように解明することが出来ます。今後、技術の進歩によって新たな発見があるかもしれません。ことうら 2017. 127ことうら 2017. 12

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