広報ことうら160
6/22

斎尾廃寺跡は、昭和初期に金堂や塔の基壇、講堂の跡を調査されています。 塔跡の基壇の大きさは、東西約15・2m、南北約15・5m、高さ約1・5mで、礎石という柱を乗せる石も9個見つかっています。基壇の大きさや礎石の数から、塔の大きさは三重塔であった可能性があります。 金堂跡は東西・南北とも約19・7m、高さ約1・3mで、発見された礎石から、建物の周りにひさしをめぐらせた大型の建物であったと考えられます。金堂の北側では、講堂跡の礎石が14個発見されています。礎石の配置から、講堂の規模は東西約24・3m、東西約15・2mの大きさのお堂が立っていたことが分かっています。 また、建物跡周辺の調査は、昭和62年、63年、平成元年に行われており、寺院の範囲を区画する溝が確認されています。規模はおよそ東西160m、南北250mで、4万㎡におよぶ大きな寺院であったと考えられます。30年前の発掘調査で出土した土器の中には、墨で文字が書かれた「墨書土器」があります。この墨書土器の中には、「東房」と書かれたものがあります。これは、斎尾廃寺跡にどのような建物があったかを考えるために貴重な資料です。しかし、文字が読める土器の数は少なく、多くは土器に文字が書いてあっても、上手く読めません。 今回は墨書土器の再調査に赤外線カメラという機械を使い、当時読めなかった文字の解読に挑みました。その結果、鳥取県の旧国名の1つである「伯ほう耆き」と読めるものもありました。そして、1番の発見は、「八寺」と書かれた墨書土器の発見です。 現在、私たちが呼んでいる「斎尾廃寺跡」は、昔は「八寺」と呼ばれていたことが明らかとなったのです。 現在の琴浦町やその周辺は当時、八や橋はし郡ぐんという行政単位としてまとまっていました。斎尾廃寺跡は、「大おお高たか野の官かん衙が遺い跡せき」といった、当時の八橋郡の役所を構成する遺跡と距離が非常に近く、八橋郡の役所との結びつきが強かったと考えられます。そのため、本来は古代の行政区画である八橋郡に由来した「八や橋はし寺でら」と呼ばれ、「八寺」はその略称で「やでら」もしくは「はちでら」と呼んでいた可能性があります。土器の年代から、少なくとも9世紀には「八橋寺」もしくは「八寺」と呼ばれていたことが明らかになりました。 大規模な寺院であった斎尾廃寺跡 再調査で新発見!!「八寺」墨書土器「伯耆(ほうき)」の文字が浮かび上がっています↓大発見!墨書土器の「八寺」 ↓「東房」と書かれた墨書土器斎尾廃寺のお寺の範囲発掘で分かったお寺の範囲現在の斎尾廃寺跡H29.12.16H29.12.1特 集 史跡ロマン斎尾廃寺跡の大発見

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る